往還日誌(313)

 






■7月5日、土曜日、晴れ。

先日、大豆を電圧鍋で煮たとき、上蓋のゴムパッキンを着けるのを忘れたまま、早朝にセットして、そのまま、眠り込み、いやに、大豆の匂いがするなと思いつつ寝入ってしまった。

起きてみると、床に水があふれており、電圧鍋のあった場所には、白く、大豆たんぱくの跡がついていた。

さて、困った。

妻にラインで聞くと、セスキパウダーで濃度の濃い水溶液を作って、これを床に噴霧して拭くといいと教えてくれた。

きょう、ようやく、これに着手。

60%くらいは落とすことができた。

使用したセスキ水溶液は、通常の3倍である。

それでも、6割くらいしか落ちない。

なかなか、手ごわい。

また、暇なときに、霧吹きで噴霧して落としていく。

大豆は、電圧鍋であらかじめ煮ておくと、きゅうりやトマト、玉葱、ブロッコリーなどとあわせて野菜サラダにすぐできるので、便利である。


きのうは、午前中に、弓の第2回目。

たいへん愉しかった。

矢の「離れ」が、もっとも難しく、先生は、様々な「喩え」で、その動作を説明してくれる。

この「喩え」が、実際の動作と一体でなされるとき、具体的なイメージとなって心に残るのである。

アーチェリーと違って、弓は、腕の筋肉だけで矢を飛ばすのではなく、上半身の骨格、胸郭のバネで飛ばすので、弓と身体の一体化が深いように感じられる。

弓道は、奥が深いだけでなく、たいへん美しい。


夕方、期日前投票を済ませる。


7月5日の午前4時18分に大津波などの大災難が起きるという、たつき諒さんという女性漫画家の予知夢漫画にふりまわされた。

私ひとりなら、気にしないのだが、家族が離れているので、いろいろ、心配になる。

5月下旬の時点で、野村竜一気象庁長官まで記者会見で説明する事態になった。

「野村竜一長官は5月21日の記者会見で、『場所、時間、規模を指定して地震が起こると予知することについて、現在の科学では不可能。そのような言及は完全にデマであり、ウソです』と指摘。人々の不安を招くような情報に対して『非常に遺憾だ』と強い言葉で否定した。そして、『一般的に地震はいつ起こってもおかしくないので、常に対策は考えていただきたい』と冷静な対応を呼びかけた」(『毎日新聞』、2025年7月5日)。

しかし、野村長官のこの弁明は、ある意味で、現代の地球物理学の敗北宣言とも受け取れる。

「地震はいつ、起きてもおかしくないので、準備は怠るな」では、なにも言っていないとの変わらないのではないか。

それなら、7月中に大地震が起きることも当然、可能性としてはありえる。

ピンポイントで言ってくれた予知夢の方が、意識を集中しやすいとも言えるではないか。

たつきさんは、2011年の3月11日を予知したということで、それと同じ形式の夢をみたというのだから、気になるのは当然である。

実は、彼女の予知夢は、「本当の大災難は2025年7月にやってくる」という文字が夢に現れたというもので、この予知夢では、7月5日の午前4時18分というピンポイントではなく、時間の幅が1ヶ月ある。

予知能力者など、なんらかの超能力を持つとされる人は、ビジネス目的のケースも見られる一方、現代科学では説明できないケースもある。

たとえば、あのユリ・ゲラーについて、1973年に、CIAが、カリフォルニア州スタンフォードで、8日間にわたる実験を行い、「ゲラーは超常的認識能力を明確に、説得力ある形で示した」と評価した例もある。

このユリ・ゲラーの実験について、1974年10月18日付『ネイチャー』は、「感覚遮断の条件下における情報伝達」というタイトルのレター論文を出し、アブストラクトでこう述べているのである。

私達は、既知のいかなる感覚にも提示されていないにもかかわらず、個人が環境に関する情報を得る一つまたは複数の知覚様式が存在することを示唆する実験結果を提示する。

先行研究〔文献1–3〕および私たち自身の観察から、このような能力は、実験室条件下で研究可能であると私達は結論づけている」。

要するに、既知の感覚以外の知覚様式(いわゆる「超能力」)が存在することを実験で示したと言っているのである。

ただし、その存在は明らかになったものの、その知覚メカニズムについてはわかっていない。

京都大学の梅野健・情報学研究科教授らの研究グループは、大地震発生1時間前に観察される電離層の電子数の異常な増加によって、大地震の予知を可能にする手法を開発している。

国会でも、社会実装の議論が行われたが、科学コミュニティーでの評価が定まっていないという理由で、日本政府の対応は鈍い。むしろ、台湾など地震国が関心を示している。

梅野教授の手法では、電子数増加のメカニズムまで明らかになっているので、発生予知の根拠は合理的に説明される。

1974年10月18日の『ネイチャー』のレター論文を踏まえると、予知夢も、既知の感覚以外の知覚様式だと、一般化して考えることができれば、ユリ・ゲラーの実験から、予知夢の存在は、否定できなくなるのではないか。

ただ、その予知夢のメカニズムがわからないで、「社会的妄想」が膨らむ条件がそろってしまっているということになる。

予知夢の妥当性の検証は、未来が現在になるのを待てばいいので、シンプルである。

フロイトは、予知夢について、どう考えていたのか、少し、気になった。



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