往還日誌(315)
■7月16日、水曜日、曇り、夜は雨。
多忙の合間を縫って、企画書を出版社へ送り始める。
『週刊文春』7月17日号で、ダライ・ラマのことを池上さんが解説していて、面白かった。その存在は、中国との関係で政治的にも、チベット仏教という点で、宗教的にもたいへん面白い。
ダライ・ラマが、輪廻転生することは、ひろく知られているが、それを認定する地位の僧侶がいるのを初めて知った。それは、チベット仏教ナンバー2で、パンチェン・ラマという。
このパンチェン・ラマも、輪廻転生する。その転生を認定するのが、ダライ・ラマなのである。
要するに、相互に、転生を認定し合っている。
ところが、1989年、パンチェン・ラマ10世が亡くなって、ダライ・ラマ14世が、パンチェン・ラマ11世を認定したのだが、その直後、パンチェン・ラマ11世が消息不明となる。
なんと、その代わりに、中国政府が、別の男の子を、パンチェン・ラマ11世と認定したのである。
チベットの民衆は、これを認めず、「偽パンチェン・ラマ」と呼んでいるという。
これは、当然、現在90歳のダライ・ラマ14世が亡くなって、15世の転生を認定するときが来たとき、この「偽パンチェン・ラマ」は、中国政府の意向に沿った「ダライ・ラマ15世」の転生を認定することになるはずである。
転生した男の子を見つけ出すプロセスも面白いが、男の子に転生すると決まっているところも興味深い。
そもそも、ダライ・ラマ(ダライ=大海、ラマ=師)に女性はいない。
その意味で、男系の天皇にも似ている。
14世の後の、ダライ・ラマ15世がどうなるのか、たいへん注目される。
この民衆のダライ・ラマを「生ける観音菩薩」として帰依する意識は、どこか、日本人の天皇に帰依する意識に似てはいまいか。
参政党の登場は、いろいろ考えさせる。
★
今度の参議院選挙は、その後が、問題なのだと思う。参政党は、「我々の無意識」を開いてしまったように感じている。
言語は、肯定が否定的な規定性を帯びる性格がある。たとえば、「それは白だ」と言えば、黒では「ない」、赤では「ない」、青では「ない」というふうに、否定の「ない」を含む。「日本人ファースト」は、それが政治的なスローガンとなれば、つまり、日本人で「ある」ことを強調すれば、日本人では「ない」存在が、クローズアップされてくる。
今、もっとも怖い思いをしているのは、在日朝鮮人だろう。我々には、警察と軍と行政に煽られて朝鮮人や中国人を大量虐殺した関東大震災後の歴史がある。この歴史は、よく知られているように、日本人の社会主義者も虐殺された。
「日本人である」というときの「日本人」とは、「支配層にとって都合のいい日本人」というカテゴリーに過ぎない。参政党の目的は、党勢を拡大して、与党になることである。今後、「日本人」から零れ落ちる日本人もあまた出るだろう。
安倍さんが作った土壌の上に、参政党という徒花が咲こうとしている。その土壌は、被害者意識がベースにある。被害者意識がナショナリズムと結びつくとき、強烈な加害者になることは、我々は何度も目にしている(関東大震災後のジェノサイドがまさにその一例だろう)。
「なんで日本人だって胸を張れないの」「なぜ日本を好きと言ったらだめなの」「なぜ、日本は悪い国と呼ばれるの」
これらは、異常な差別と自国ファーストのイスラエルを筆頭に、それに支配された米国、それに支配された欧州の現実と歴史と比較すれば、「日本が戦争に負けたから」という結論へと導かれるだろう。
なぜ、日本だけが悪いのか、と。
つまり、占領国によってつくられた歴史観・支配イデオロギーに80年間操作されてきた、という見方へ導かれる。これは、一理ある。
だから、参政党やその土壌は、我々の集合的無意識へとつながり、非常にやっかいなのである。参政党に、きちんと言論で批判することは、多くの左翼リベラルが考えているほど簡単ではない。
私が思うに、基本は、「歴史的被害存在の『痛み』に定位するスタンス」を維持することだと思う。そうしないと、我々の集合的無意識にさらわれていくような危うさを感じる。
言語は、肯定が否定的な規定性を帯びる性格がある。たとえば、「それは白だ」と言えば、黒では「ない」、赤では「ない」、青では「ない」というふうに、否定の「ない」を含む。「日本人ファースト」は、それが政治的なスローガンとなれば、つまり、日本人で「ある」ことを強調すれば、日本人では「ない」存在が、クローズアップされてくる。
今、もっとも怖い思いをしているのは、在日朝鮮人だろう。我々には、警察と軍と行政に煽られて朝鮮人や中国人を大量虐殺した関東大震災後の歴史がある。この歴史は、よく知られているように、日本人の社会主義者も虐殺された。
「日本人である」というときの「日本人」とは、「支配層にとって都合のいい日本人」というカテゴリーに過ぎない。参政党の目的は、党勢を拡大して、与党になることである。今後、「日本人」から零れ落ちる日本人もあまた出るだろう。
安倍さんが作った土壌の上に、参政党という徒花が咲こうとしている。その土壌は、被害者意識がベースにある。被害者意識がナショナリズムと結びつくとき、強烈な加害者になることは、我々は何度も目にしている(関東大震災後のジェノサイドがまさにその一例だろう)。
「なんで日本人だって胸を張れないの」「なぜ日本を好きと言ったらだめなの」「なぜ、日本は悪い国と呼ばれるの」
これらは、異常な差別と自国ファーストのイスラエルを筆頭に、それに支配された米国、それに支配された欧州の現実と歴史と比較すれば、「日本が戦争に負けたから」という結論へと導かれるだろう。
なぜ、日本だけが悪いのか、と。
つまり、占領国によってつくられた歴史観・支配イデオロギーに80年間操作されてきた、という見方へ導かれる。これは、一理ある。
だから、参政党やその土壌は、我々の集合的無意識へとつながり、非常にやっかいなのである。参政党に、きちんと言論で批判することは、多くの左翼リベラルが考えているほど簡単ではない。
私が思うに、基本は、「歴史的被害存在の『痛み』に定位するスタンス」を維持することだと思う。そうしないと、我々の集合的無意識にさらわれていくような危うさを感じる。
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政治党派を左翼・右翼の二分法で分類するのは、もう無効だと言われたのを始めて聴いたのが1980年代だった。私が大学生のときで、社会学特論ゼミの担当教官だった、上野千鶴子講師(当時)が、当時、よく述べていたことだった。
一般社会操作論(The
General Theory of Social Manipulation)を構想するにあたり、社会操作(Social
Manipulation)という概念で、政治勢力を新たに定義できることに気がついた。
だれが当該団体を操作しているかという、操作主体によって、カテゴライズすると、参政党も日本保守党も自民党も立憲民主党も国民民主党も日本維新の会も同一カテゴリーに入る。
それらの操作主体が、米国―イスラエル連合(この2つの国家の政治・経済・軍事の強い結びつきから、この2国家を一体として、Usraeliと呼ぶ)だからである。
ここにあげた日本の政治政党は、社会システムとしての日米安保条約を安全保障政策の柱としたことによって、Usraeliの構造操作を受けるからである。反グローバリズムを掲げる参政党も、その言葉とは裏腹に、Usraeliの構造操作を受ける受容体を複数すでに持っている。
このカテゴリーには、たとえば、米国の民主党も共和党も、リフォームUKも、AfDも、国民連合も一緒に入る。
従来の右翼も左翼も、その操作主体から見れば同一カテゴリーに分類されるのである。
ただし、そこには濃度がある。
世界でもっとも、その濃度が濃いのが、日本(自公政権)とドイツ(メルツ政権)だろう。